体罰

体罰問題だけど、あれの本質的に駄目なところを見分けるのは、俺には簡単に思える。
体罰的行為を相手に与えた理由が、
生徒の為だけを思ってやったのか、
与えた本人が自分の利益の為にやったのか、
それだけ。
金メダルのコーチも一緒だ。
但し、金メダルのほうは、間違いなく自分の利益の為だろう。
クラブのコーチがクラブの成績の為に存在している以上、
クラブの成績さえ上がればコーチ自身の地位の保全や報酬アップに結びつき、
雇う側も、
成績さえ上がれば多少の違法的行為に目をつぶる。
学校のほうは、そこに教育というやっかいめいたものが絡んでいるだけで、
本質は変わらないと思う。

教師のような職業や学校が、いつも聖人君子のような行動を求められるのは、俺はおかしいと思う。
そんな特別な報酬を彼等は得ていますか?
俺ね、きちんと報酬を払う親が通わせている学校では、
そんな一方的な行動をとる教師は、いないのではないかと思うよ。
只の人間が働いているのだよ。学校であれ、警察のような役所であれ、オリンピック委員会であれ。
そこには、勿論素晴らしい人格者もいるだろうし、とんでもないアホもいるだろう。
ホームレスの人にも、素晴らしい人格者がいて、アホもいるだろう事と同じように。
住む世界が変わっても、人間は変わらない。

俺は、今振り返って考えると、
小学校5年生くらいの頃に、
冷えた鉄の塊を飲み込んだ。
それは、人間を色分けする基準みたいなものだ。
本物か、偽者か。
本気なのか、嘘っぱちなのか。
それ以来、ずっと変わらずに、その基準を持ち、また磨きをかけてきている。
但し、それは正しいとか、間違っているとか、そういうことではない。
それは、俺の偏見そのものなのだ。俺自身と言ってもいい。

そんなもので色分けされる他人はたまったものではないね、もちろん。
だから、社会で生きていく上では、そこは適当に誤魔化しているが、
本心では、きっちり色分けしている。今現在も。

これを、冷えた鉄の塊だと、俺は思っている。

熱ければ、形を柔軟に変えることもあろうが、
どんどん冷えていく一方なので、
もうあきらめつつあるし、
変わるには年をとり過ぎてしまっているだろう。

小学校5年の頃から、俺は老人であったと言えるのかも知れない。