変な悩み方

自分以外にも、わからないことだらけなのに、わからない自分をわからないのは、当たり前だ。

例えば、何でお空に雲が浮かんでいるのだろう。

これを、完全無欠に説明することは、不可能なのが当たり前だ。
そもそも説明が求められているわけじゃない。

目が見えなければ、お空の雲は見えないのだ。

わからない、解らない、判らない、分らない、
わからないという言葉ひとつをとってみても、
わからないすら、わからない。

わからないということが、わからなければ、
わからないだらけになってしまうけど、
そこに無理やり理屈をつけて生きているのが、
おいらである。

理屈にも色々な種類があって、
おいらが信じている理屈はおいらにとっては正義だ。

あなたが信じている理屈は、あなたにとっては正義だ。

じゃね、石ころは、理屈を持っていないだろうか。

おいらは、あると思う。

ただ、石ころとおいらの間には、おいらにはわからない膜があって、
そちらのことは、わからないということだ。
石ころは、おいらを見て笑ってるのかも知れない。まぁ、そんなことは無いだろうけど。

おいらの世界は、おいらにしかわからないし、
石ころの世界は、石ころにしかわからない。

おいらがおいらの世界をわかっているのかも、わからない。

わからないということを前提にして書いてきたのに、
こんなことを書いているだけで、なんか自分のことはわかっている気がしてきてしまって、

わかるほうに引きずられてしまう。

これは、わかりたいという、真の願いだと、おいらは思う。

そこらあたりに、世界の秘密があるような気がするのだけど、
うーん、どうだろう。

ただ、わからないということを受け入れないと、今の現実はとうてい受け入れられないし、
そこで悩むと、おいらは簡単に壊れる。

わからないのは当たり前だと思わないと、
自分内の堂々巡りのストレスに、簡単にやられちゃう。

まだ、わからないということを完全に受け入れてはいないので、
おいらも多少のストレスにさらされているけど、
まぁ、なんとか歩いている。

わからないことこそ、素敵じゃないかと心から笑いたいという願いを、
おいらの願いに方向を加える。