描いた未来

産まれた時から未来を描いてきたならば、
僕は少なくとも半世紀間、未来を描いてきた。

現在が、産まれたときに描き始めた世界の結果だ。

世界を描ききるというのは、
非常に難しい作業だ。

描ききらねば、誰も見向きはしない。

僕が生きている社会というのは、
誰かが描いた、一応の完璧なストーリーに乗っている。

一応である為、
別の一応の完璧なストーリーを創る事は、不可能じゃない。

一応の完璧なストーリーは、
僕が生きている社会では、モデルと呼ばれることもある。

そのモデルは、誰にとっても、どこかに恐らく違和感のあるものであるけれど、
違和感が何なのかを突き詰めるのはとても難しいし、
もしその違和感を切り取れたとしても、
切り取った部分に、何を当て嵌めるのかを考えなくちゃならない。

モデルそのものを新しく構築してもよい。

しかしだ。新しいモデルは、社会に当て嵌められるほど、一応完璧でなければならない。
それを考えるのは、僕にはなかなか難しい。

完璧であるという事は、一応であってはならないのだけど、
一応なモデルが完璧なモデルであるかのように巧妙に騙されているのじゃないかということには、
もう、眼を開いてもよいだろう。

ネアンデルタール人が見た空と、
僕が見る空に、
殆ど意味の違いは無いだろう。

ピラミッドを造る技術が僕に無いとしても、
ピラミッドを造った人達は、核ミサイルを造る技術は持たないだろう。

もし、現在の社会的資本の全てを傾けてピラミッドを造るとしたならば、
必ずピラミッドは、建つはずだ。技術も見つかるだろう。

社会が持つ目的が、やや違っているだけだ。

どの道、あまり意味は無い。

世界を描こうとする人も、かなり少ないのじゃないかな。