自分を愛する理由。

なんと胡散臭いテーマだけど、
おいらにとってはハード・ボイルドな、しかも人生の根幹にあるテーマである。

おいらはかなり子供のころから誰かに悩みを相談するのが嫌いというか、
相談の意味を理解出来なかった。

自分が恥ずかしいと思うことを他人に話すのは更に恥ずかしいし、
弱いと思われるのは決定的に嫌だし、
誰かに嫌われるのはある意味構わないけど、出来るだけ避けたい。

幼い頃にそのモデルは何故か自分内に出来上がってしまっており、
それ以降は恐らく、
他人と接触するための仮面をかぶった自分と、
瞬間的に何かを感じ続けている自分と、
どう反射すべきか考える自分の三人で、
一人の自分をぐるぐる回し続けている。今も、殆ど変わらない。

問題解決を自分以外の何かに頼ることなど、まっぴらごめんだ。

信じると、愛するを比べると、
態度としては愛するほうが、自分の中では上回っている。

信じただけのものは、熱が過ぎ去れば消え去る。又は、単なる通り過ぎた風景としての記憶だ。

信じたものの間違いに気付いても、なお惹きつけられ、好きになって、熱中して、
もうそれが無くては生きていられないと思うほどその最中は熱狂しながら、
やがて熱が去り、飽きちまってもなお、自分の中に生きるもの。

ありのまま全てを受け入れる。
そういったものを、おいらは愛する。

何の為に愛するのかと言えば、判断を自分に尋ねる為だ。

人として生きている以上、あらゆる判断は自分が下すべきだというのが結論なのだ。
そうしないと、
何かの判断を、いつも誰かや何かに頼らなければならなくなる。神様とか。

自分を頼るには、自分の中に本当に愛する人や、本や、物、何でもいいのだけれど、
自分の中に生きるものたちを増やした方が、答えの精度は高まるはずだ。

更に、
そんなことを積み重ねる自分を飽きるくらいに愛さなければ、
自分が出した答えを信じられない。

おいらは、
自分の中の志ん生さんに、度々何かを尋ねることがある。
「お前さんねぇ、しょうがねぇじゃねぇかなぁ、そんなこたぁ。」
その横で、かおりさんがギターを弾いたり、
尊敬していた小学校の先生がげんこをくれたり、
親父がちゃぶ台をひっくり返したり、
それらは妄想でも幻想でもなくて、

自分の中の愛するものたちがおいらに返してくれる、愛だと信じている。