好き。嫌い。醜い。
バイリンガルニュースというポッドキャストからのパクリネタなのだけど、
自分のブログ環境内のホットトピックなので、
色んなものを借りて、好き嫌い問題として何か言ってみよう。ヾ(@⌒ー⌒@)ノ
オーストラリアのある研究チームが、オーストラリアに住んでいる人達を対象に、
生物に対する見方みたいなものを研究した結果、大体3つのパターンに分類されたらしい。
それが、
好き。嫌い。醜い。
好き。=オーストラリア固有の種。カンガルー、コアラ、キウイ鳥、etc.
嫌い。=外来種。狐、ウサギ、etc.
醜い。=齧歯類(ネズミみたいな)、コウモリ、etc.
この研究が正しいとかなんとか言うのではないが、
ちょっと思ったことがある。
醜いについて。
醜いと、生物種自体の研究論文数も、圧倒的に少ないそうだ。
そうだな、見るのも怖いし、そうなれば考えるのも、増々怖い。
だとすると、好き嫌いを判断する状況と、
醜いもの=恐怖を忘れ去りたいという状況に、
思考の方向としては、ある程度2方向に分かれている。
好き嫌いは、見続けていられるが、
醜いは思考外。
うちのかみさんは、夏にベランダに転がっているセミを発見すると、
見なかったことにしているそうだ。虫全般が、怖いらしい。
まぁ、あの転がっているセミは、触ると急に生き返ることがあるしね^^。
実は、それも虫の死んだふりという戦略が隠されているが。
俺は、好き嫌いについて色々考えることが多かったんだけど、
最近、やはりブログ関連のホットトピックとして、ニーチェの本を初めて読んでいる。
「道徳の系譜学」という題名なのだけど、
これが本当にひねくれた本で、ひねくれ好きな自分は、感動している。
この場合のひねくれは、決して否定的な意味ではなく、
よくねじくりまくっているという、肯定的な意味だ。
まだ読みかけでこんなこと書いてはどうかなとも思うけど、
まぁ、ブログ記事なんで、許されると勝手に判断しよう。
醜いと、思考から外れてしまう。
これは、仕方ないと思う。
そんなものを考えてばかりいたら、自分は壊れるだろう。
しかし醜いと、そう思われている側はどうだろう。
圧倒的にはびこり、増やし、存在し続けようというパワーを持っている。そちら側が、圧倒的に強い。
例えば、人にとってのウィルス。
俺は、この関係が、生命存在の正体ではないかなぁと、今は考えている。
俺の好き嫌いなどというのは非常に単純で、自分内のモデルの投影にすぎない。殆どの場合。
自分がそうなりたいというモデルがあって、そうしてくれている人が好きで、
同様にそうなりたくないというモデルがあって、それをあからさまに表している人が、嫌いなだけだ。
では、それがどこから来るのかと考えて足元を見ると、
さぁ、自分の足元に無数に絡みついた足枷が見える。非常に重い塊付の。
一括りにして、記憶と言って良いかもしれない。
無意識や、DNA記憶なども、
一括りに歴史的な記憶という足枷。
記憶の、奴隷だ。
解くのが正解か、解かないのが正解か。
俺内のモデルを造ったものの、正体。
解くと、俺は恐らくバカか、狂人と呼ばれるだろう。
今のところは、そう呼ばれるのが嫌だと俺内の俺が言っているので、それに従っている。
社会に従うことが、正解だと。
狂人とされれば、社会というモデルの中では、生きられない。
俺内も、社会も、どちらもただのモデルなので、
生きる、生きないというのも、判断は非常に難しい。
深海で発見されたこの巻貝は、足をひっこめることが出来ないらしく、
その為に固い貝殻を金属で覆ったらしい。
しかし、蟹に喰われる可能性は、減っていないらしい。
人間以外の出来事は、無目的に、なるようにしかならない。