音楽の源泉はどこにあるのか。
私は自分でギターを弾くことや誰かの弾いているギターの音を聴くこともとても好きで、
アコースティックの方がより好きだけど、エレキでも構わない。
現在、練習しているのはA・ヨークの「サンバースト」
勿論、ここで弾いているのは私ではアリマセン;;。
初めて見たのは、日本の民間TVで、木村大さんが弾いているものでした。
録画もしておらず、ただその画面を見ながら、「ほーーーーっ。」とため息ついた。
どうやってこんな音が出ているのかさっぱり解らず、
まぁ、凄い曲があるもんだなぁと、感心するのみでした。
また、のちに村治佳織さんが弾いているものが、コマーシャルで流れていました。
で、ネットの時代になってから、私のギター魂が、猛然と湧き上がってきたのだ。
なかなか、昔はギタリストのビデオは観れない時代だったし、現在は環境が整っている。
今、挑戦する曲を選ぶ基準は、「これは、たぶん無理だろう。」
こんな曲、弾けるわけないな、というのを基準にしている。
これがね、全然無理だと思っていたのがね、だんだん弾けるようになるんだね。
私は昭和39年生まれなんですけどね、
おそらく、一生懸命に、プロを夢見て寝ても覚めてもギターに触れていた時代より、
今のほうが弾けているんじゃないかと、感じられます。
少しずつ、練習の意味が感じられるようになってきた事が、大きい。
無理な曲を練習していると、全く弾けないことが、まず、わかる。
で、何時間もぶっ通しで、続けてみたりする。
その間は、決して弾けるようにならない。
で、寝て、次の日も弾いてみて、やっぱし弾けない。というか、弾くという門前のところまで到達さえしない。
「くっそー。」と思いながら、最初は2時間くらいは練習していたのが、
次の日は1時間、次はギターに触れるのも嫌になり、
思い直して5分。ああ、これはやっぱし無理だな。また数日おいて、5分。
嫌になって、放置。
1ヶ月後、思い直して、弾いてみる。
ここで、大転換が、起こる。
ここだ、人間の秘密は。
「あれ?。ちょっと、弾けてるなぁ。」嬉しい。
で、もうちょっと弾いてみる。
あれれ、弾けていない部分と、弾けている部分が、かなり明確に区別できる。
弾けていない部分を何度も繰り返す。今度は、弾けていないフレーズが細分化されてきて、
ここが弾けないから、ダメなんだという部分が見つかる。
全体を、弾き直す。
「お。これは、結構いけるじゃん。」で、寝る。
次の日、通しで弾いてみる。あれれ、全然ダメじゃん。
「くっそー。」通しで練習だ。で、通しでは、やっぱり出来ない。
才能の無さを痛感して、かなり落ち込む。この曲は、やはり私には向かないんだと、慰めたりする。
ギターよ、さようなら。僕は、あなたに見離されました。グスン。
一週間後、
「こっちにおいでよ。」と彼女が呼んでる。
「俺は、嫌だよ。」と、俺じゃない俺が言い返した。
本当の俺は、片時も彼女と離れたくないんだ。
「まぁ、触ってみなさいよ。あたしがなんとかするから。」
あ、鳴っている。たどたどしいけど、鳴っているのが聴こえる。
「そこ、もうちょっと、タメてくれなきゃ、だめなのよ。」
「言っていること、わかるでしょ?私が言いたいのは、あなたじゃなきゃ、だめだって、ことなのよ。」
練習とは、出来ていないことを脳が確認する為の作業であって、
熱中したからといって、出来るようにはならない。
脳が、現実との調整を始めてくれてからが、勝負だ。
そして、また、作業をしながら、現実とのギャップを脳は再確認する。
やがて、脳は、完全に弾けている俺を造り出す。
後は、現実を脳内の俺に合わせていく作業をするだけになる。
これが、本当の練習になる。
で、こんな欲求が、どこから湧き上がってくるのかという問題に行き当たるのだ。
私はこれを根源的な欲求と捉え、肯定しています。
よくわからないのだけれど、肯定的に捉えています。
更に、この欲求を基準にして、世の中を考えようとしています。
この欲求に近いものは純粋なもので、遠ざかるほど、不純になっていくと。
=========おしまい===========