亡き王女のためのパヴァ―ヌ
曲の印象についてではなく、題名について。僕にとって、とても悩ましい題名なのだ。
まず、この題名は作曲者自身によって付けられたものなのだろうか。
クラッシックの多くの曲は、誰かが勝手に題名を付けたものが多い。
亡き王女って、誰なんだ。
それとも、特定の誰かではなく、イメージとしての亡き王女なのか。
亡きとしているのだから、まさか作曲された当時に生きていた王女ではあるまいが。
のためなのだから、
その王女を想って作曲したのか、
もしくはその曲を聴いてその王女が想い浮かんだ誰かが付けたのか。
そして、パヴァーヌ。
これは、とても悩ましい。
語感からいって、フランス語か。
僕の乏しい語彙からの想像は、そこまでなのだ。
追悼。鎮魂。恋慕。追想。懺悔。憧憬。祈祷。祝福。
以上、二字熟語だが、
なんかもうちょっと、横恋慕とか、入れたいな。
でも、ための、に、ならないか。
亡き王女のための横恋慕では、亡き王女のためになっておらん。
屈折しすぎだ。
ちょっとネットで調べりゃすぐに解るだろう。
しかしね、
そっとしときたいのね、僕は。
そういったことが、あからさまになっちゃうと、
僕の性的欲求が減っちゃう気がするのだ。
性的に限らず、欲求のレベルが下がっちゃう。
だから、ネットでは調べない。
そして、探しに行くんだ。世の中に。
どうやって、あの娘に声かけるのか。
どうやって、その娘の手を握るのか。
どうやって、その娘の唇に触れるのか。
その胸に手は伸ばせるのか、はたまたその下半身はどうするのか。はたまたその先は。。。。
1歩1歩、少しずつ考えながら進んだもんだ、僕は。
あまりに短絡的な事件がテレビに流れており、
模倣犯をテレビが生み出し続けている。
それは、仕方ないのかもしれないが、
被害者及びその関係者には、たまらないことでしょう。
テレビは広告を流して多くの人を魔法にかけるための箱であり、
それを巧妙に誤魔化すために、
流す作品に、多くのストーリーを付けている。
ドラマも、ドキュメンタリーも、音楽も、映画も、ニュースでさえ。
広告を流すための言い訳でしかない。
言い訳について、何の議論をしても無意味だと僕は考える。
ありゃ、出だしと終わりが、あんまり結びつかないなぁ。
まぁ、それが、ブログだと、諦めるかなぁ。