運転と、俺は別?

滅茶苦茶に手当たり次第に本を読んでいるおかげで、ようやく俺が滅茶苦茶になりつつあって、
とても嬉しいが、かなり疲れを感じる状態でもある。

ベルクソンの遺言」を読んだ後、ベルクソンの「物質と記憶」の翻訳を読みかけの状態で、これを書いている。

並行して、息抜きに「落語大看板列伝」を読んでいるということで、
支離滅裂さがおわかり頂けるかも知れない。

先日、お彼岸の墓参りで神さんを隣に座らせて2時間弱のドライブをした。

運転しながら、宗教のしの字も気にしない神さんに、
「日本人は潜在的仏教徒である」
という養老孟司先生の話を思い出しながら、
イスラム、キリスト、ユダヤの歴史、新約と旧約の意味、
神道と仏教、アジアとヨーロッパ、
といった話を俺なりの理解で神さんにお話した。

これは、俺の脳アクセルを目一杯踏まないと、出来ない話である。
現実世界での運転は、極めてスムーズ。
信号の見落としもないし、急アクセル・ブレーキ等など、
危険を伴う運転は無かったと思う。

あ、そうか、身体的脳活動と、思考的俺的脳活動は、かなり別だなと、
本を読みながら実感した。

こういった世界が日常なんだ、たぶん。俺的には。
おそらく、他の誰かも。

ってことはだ、
身体的脳が壊れたとしても、俺的脳が残って欲しい。
身体的脳が壊れると、俺的脳も壊れてしまうなら、
俺は両方ともいらない。

俺的脳が壊れて、身体的脳が残るなら、
これを悲劇と呼ぶしか、ない。
断固拒否したいが、
その時、俺は、俺の身体を認識できない。
自分が誰だか解らなくなったと他の誰かから思われるとしたなら。。。

神さんに、頼んでおこう。
出来るだけ合法的に、俺を殺して欲しいと。

うーん、難しいか。
運転中ではないのに、それを神さんに説得するのは。