色は匂えど

いろはにほへと ちりぬるを   色はにほへど散りぬるを
わかよたれそ  つねならむ   我が世たれぞ常ならむ
うゐのおくやま けふこえて   有為の奥山今日越えて
あさきゆめみし ゑひもせす   浅き夢見じ 酔ひもせず

以上ウィキペディアより

かなを一度ずつしか使わずに、ほぼ見事に七語調である。
日本人の心情へ訴えかけるに最適なリズムと思われる。
「かなを一度限り」というウタは他にもあるが、
僕の知る限りは、このいろは歌が最高である。

しかもである。
僕は田中忠雄先生の説をとるが、
これはおそらく弘法大師が作られたもので、
摩訶般若波羅蜜多心経の世界を正確に描いているそうである。

47文字から「い」を引いて、残りの46文字から「ろ」を引いて、
という方向では、このウタは詠めないだろう。
僕のちっぽけな想像力にたよれば、
おそらく全部一編に語られたウタのはずだ。

思考に思考を重ね、唸りながら一気に全てを吐き出されたとしか、僕には思えない。

しかし、そんなことが人間に可能だろうか。
それはどう考えても、人間の考えでは、不可能ではあるまいか。

ということは、
「このウタを詠んだ本人が超人であった。」
「超人が、この人の体を借りて、この人に詠ませた。」

これは、超人が存在することの証拠ではないだろうか。
その存在を、何とよんでも構わないが、
それは絶対に存在しているとしか、僕には思えない。

日本人ならば、かなは、このいろは歌で覚えるのが良いと思う。
必ず発声しながら。

このあたりから脱線が酷くなりますが、
小学校入学のあたりでこのいろは歌を歌い、
5年生くらいから意味に入って、
中学校卒業のあたりで少なくともこのウタの表面的な意味がわかるくらいになるのが、
本来の教育ではないでしょうか。
勿論、もっと早い年齢でも構わない。
深い意味は、それぞれその人から発展するでしょう。


仏教は、例えばキリスト教とか、何々教とか、そういった宗教という解釈ではなく、
例えばソクラテスとか、プラトンとか、
そういった偉人達の教えと比肩されるべきであって、
仏哲学と最初に訳されていればよかったんじゃないかなぁ。

でもなぁ。そんなこと全然関係ないのが、仏哲学みたいだしなぁ。

僕は西洋コンプレックスが、あるんだな。