対象に、もぐりこむ。

好きになると、のめりこむ。
志ん生師匠を聴いていたときは、とにかく朝から晩まで。もう寝ようかという時にも聴く。
寝ている間も、かけっぱなし。
出来る範囲で可能な限り、志ん生師匠関連の、本を読む。
だからって、何かをわかろうということじゃない。
もう亡くなっている人なので、少しでも近づきたいという抑え切れない思いを実行するには、
そのくらいしか思いつかない。
とにかく、噺のリズムに同調したい。一緒に生きたい。

これは、自分が生きているあいだじゅう、志ん生師匠だけではなく、他の対象にも向かうはずだ。
もうかなり多くのものを、このように好きになってしまった。
きっかけが何なのか、自分には判らないから、とても怖い。

しかし、その判らないことを、書いてみたい。

僕から無数のアンテナがそよいでいる。
可動的に出す事が出来るし、ほぼゼロにすることも出来る。
しかし、その量、タイミング共に、
自分でコントロールすることは、出来ない。出来る人がいるのかもしれないが、僕には出来ない。

そして、自分以外の何ものからかも、同じようにアンテナがそよいでいる。
それは、生物、無生物、記憶、その他あらゆるものから、そよそよと風のように、吹いている。

アンテナには、太さにばらつきがある。

太いアンテナどうしが触れてしまえば、
触れたものどうしは、おそらくもう抜き差しならない関係を結ぶに違いない。

微かな風どうしが触れたとき、
もう、そこから微かな結びつきが生まれ、切れたと思っても、微かな結びつきが成長してしまうこともあるだろう。

未来から吹く風でさえ、触れ合うアンテナがあるのかもしれない。それは、僕にはわからない。

ただ、風が吹いている事は、疑いようがないと、僕には思える。