あなたも教祖になれる

この記事は何か変な宗教に誘導しようというものではありませんので、あらかじめご了承下さい。

言葉というのは当たり前の存在のようで、よく考えると殆ど当たり前ではありません。
発声による言葉を持っていない原始人同士が、
身振り手振りによる言葉がめんどくさくなって、
右を指差しながら「うー」と言ったら右で、
左を指差しながら「えー」と言ったら左だとしましょうと、
あなたとわたしで苦労して決めた。
そしてあなたとわたし以外の誰かにも、
「うー」=右、「えー」=左という言葉を共通の前提として広める。

その時代の言葉ならば、当たり前だと考えてもあまり不都合は無いでしょう。

しかし現代に至ると、そういった1歩1歩積み重ねた言葉を発展させた言葉や、
更にそれらを複雑に組み合わせた言葉が広がっていて、
例えば単純な会話でも、疑いだせばキリが無いのが現代といえるでしょう。
漢字熟語というとても優れた表現が一人歩きを始めると、
もう混沌と言えるような無意味とも思われる世界が出来上がります。

例を出すと、
戦略的互恵関係
これ、何を言っているのかわかりますか?。
わたしは、
「戦争寸前なのだけどなんとかお互いに我慢しましょうという国家同士の状態」
と理解していますが、はっきりいって何の事だかわからないというのが真実でしょう。

このように、言葉というのは悪意を持って使うのはとてもいけないことだと
わたしは考えています。

言葉は必ず誤解を産み出すものだと思います。

だからといって、例えばここまで書かれたわたしの文章の意味を全部ひとつひとつ検証しながら読むって、
そんなこと出来ますか?

まだ納得していないはずの前提を二つ並べて選択させようとすると、
すぐ教祖に近づきます。

「あなたは人生に幸福を求めますか?」「あなたは人生に夢の実現を求めますか?」
     そして、「あなたはどちらを求めますか?」

前提を多く含んだ問いかけを二つ以上並べると、何か深遠な問いかけに思えてくる。
そういったトリックは、
悪意を持って使ってはいけない。

言葉を悪意なく、なにげなく使ってしまうことは、仕方有りません。
しかし言葉は、前提でしかなく、
真実だと言い切ってはいけない。

広告の多くは殆どこれの悪用であり、
いんちき宗教、詐欺なども、これの悪用だとわたしは考えています。

言葉による表現は、まぁそんなもんかなぁくらいに受け止めるのが良いと思います。

悪意を持って書かれたものは読み飛ばすのがよく、
悪意を持たずに書かれたもののみ、
深く考えてもよい表現なのではないでしょうか。

また、トリックを善意として使う表現というのもありますが、
それは賛否両論ある表現であって、
作者はその批判を受け入れるでしょう。

この記事を読み始めるときに、なんかおかしいなと思った方がたくさんいると思いますが、
あらかじめご了承いただけるはずがありませんね。

言葉の悪用ということを考えれば、
あなたは教祖になることは意外と簡単であり、
教祖とよばれている人がいるとしたならば、
その人が語る言葉に悪意があるかどうかを注意深くサーチすると、
メッキは簡単に剥がれます。