記憶その2

慣れとは、「これは前に出会ったことのあるものだという判断」ということ。
これは、記憶がなければ味わう事の出来ない感覚だ。
なので、どちらが先かといえば、記憶という運動が先だといえるだろう。
しかし、記憶を産み出すには、様々なよくわからない刺激の中から一つの何かに結ばなければ意味を成さない。
繰り返し出会う刺激によって、最初の意味は朧げな何かから、うっすらと意味の形が現われる。
さて、うっすらと現われる形は、
最初は一つであることは間違いないはずだけど、瞬間的に、同時多発的に広がりを見せるはずだ。
何故なら、
「それだ」と解ることは、「それじゃない」ものから「それ」を見出したことであり、
その一つの運動によって、「それじゃない」ものを圧倒的にばらばらに解体するからである。
しかしが多いが、しかし、最初から始まるその解体運動は、
言語によるものではなく、名前の無い「運動」によるものであることは、おそらく誰にでも実感できる事ではないだろうか。
運動という言い方も、単なる私の勘違いなのだけれど。

コドモの脳内で始まる一連の動きは、言語を知る以前の分節活動なのだけれども、
それは言語によらない「記述」の始まりなのではないか。
その「記述する」という運動こそ「記憶」の正体で、
何か脳内に保存されている一般的な意味の記憶などというものは、嘘だ。
全て、動的なもので、固定されようがないのだ。
脳細胞でさえ、というか生命活動全てが動的なのだから。

それでは、どこに記憶があるのだろう。
私は、周囲にあると結論しているけど、もう少し突っ込んでみたい。

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