記憶その3

記憶と呼ばれている運動が意識に働きかけてくる最大かつ重要なもの。
それは、「自分が自分である」という働きかけだ。
これが失われたり、あるいは作用が低下したりすると、
当たり前だが自分は自分ではなくなり、記憶全体が意味を失ってしまう。
従って、神経系は様々な方法を使って、自分という意識の保存に全力を傾けている。
神経系は物理的には非接触みたいなもので、電気が流れる事によってつながりがうまれる。
DNA作用的に、生体の保持のためにほぼ決定的な流れ方があり、
人間の脳のような圧倒的多数の神経が集中している部分では、そういった決定的な流れのほかに、
遊びがある。余裕と言っても良い。
その部分を使って、決まった流れ方のように思える神経系の作用の塊を造っていくその作用が、
記憶だと思う。
しかし、それがどんなに決定的だと思えたとしても、生命作用の根本として全ては流動しているはずなので、
決定しているものなど在り得ない。
脳のどこにも録画機能のようなものは無いし、記録された映像も無い。
勿論、そのように脳内で見える映像現象は存在するが、それはいつも新しく生まれているのだ。
もしビデオのように保存されているならば、内容は変容することは無いはずだが、
記憶は変容し続けている。忘れるということじゃない。内容が変わってしまうのだ。
思い出すというのは、常に新しい生成だ。

さて、そうなると「自分が自分である」ことの保持は、内部的なものだけではいささか不安であろう。
そこで、「周囲への自分の刻みつけ」を、人間は行っている。
自分の姿は自分では見えない。
誰が見ているかというと、あなたである。
だから、友達が必要なのだ。
人だけじゃない。家も、道も、猫も、花も、車も、アートも、地球も、宇宙も、
全てに自分を刻みつけ、
それらはみんな自分を見つめてくれている。あなたを反射してくれている。
同様に、自分は誰かを、何かを、反射している。
存在とは、その動かしがたい繋がりなのだ。

記憶とは、自分であることの絶え間ない言語と言語にならないものによる記述であり、
世界は非常に美しい交響曲である。

こう結んで、記憶の回は、終了。ちょっと急いだか。まぁ、またやればいいや。

=====思考整理ノート「記憶」おしまい=========