ギターと、愛。その3
嫌いな音楽がある。それは、音楽とは俺には呼べないものだ。
しかし、それは決定的に存在している。
ちらっとそれを聴いただけで、ばっさり切り捨てる。その音楽が流れ続けていても、もう耳に入らない。
聴こえていても、心理的に切り捨ててしまう。
何故切り捨てるのかを、真剣に考える気にならない。
それを深く考えていると、取り組む音楽を真剣に考える為の時間の邪魔になるからだ。
俺は愛する村治さんが弾いている曲でさえ、切り捨ててしまうものが、ある。
但し、切り捨てるのは、その、ひとつの曲だ。
この心理的、俺的行為は、恐らく俺に間違いがある。
つまり、彼女が見つめる孤独に触れ合たいのならば、切り捨ててはいけないはずだからだ。
こういった思考的な段階を、人に当て嵌めてみよう。
嫌いな人がいる。それは俺には人とは思えない。
しかし、その人は存在している。
ちらっとその人を見ただけで、思考から追い出す。その人が何を言おうが、もう耳に入らない。
話は聞いているが、心理的に切り捨ててしまう。
何故切り捨てるのかを、真剣に考える気にならない。
それを深く考えていると、大切な誰かと触れ合う為の時間の邪魔になるからだ。
俺は愛するあなたの言葉でさえ、切り捨ててしまうものが、ある。
但し、きりすてるのは、その、ひとつの言葉だ。
この心理的、俺的行為は、恐らく俺に間違いがある。
つまり、あなたが見つめる孤独に触れ合いたいのならば、切り捨ててはいけないはずだからだ。
ほぼ、ぴったりあてはまる。
間違いは恐らく自分にある。
俺は、自分のことを考える場合にも、同じ理屈で取り組む。
俺とも、真剣に取り組む必要は、ある。
嫌いな自分も、いるから。
全てを自分に返さざるを、得ないのだ。
それを引き受けようとしない奴は、俺は人とは認めないと結論して、
始めに戻る^^。
このぐるぐる巡りを、人生だと結論して、
結論しよう^^。