ナルシスト力

こうして何か書いたりしたものを誰かに見られることは、非常に恥ずかしい。
しかも、俺は自分のギターの動画とか、写真とか、まぁ、恥ずかしい限りだ。

恥をジャンプしないと、何も表現できない。

何かを誰かに伝えようとするとき、ある種の壁がある。

そんな壁なんて感じないという人もいるだろう。それは、とても羨ましい。

俺には常にその壁が感じられる。超えるのには非常にエネルギーを使う。

しかし、自分の恥をさらさなければ何も始まらない。

普段のちょっとした会話でも、俺はその壁を感じながら会話している。

どこまで自分をさらすべきかというバランスを考え続けながら、同時に自分をどこまで隠すべきかという裏側のバランスもとっている。だから、お前は小賢しいと受け取られがちである。冷たい奴だとか、結論しか転がっていないとか。

まぁ、現実の会話世界では、もうそれは、仕方ない。そのようにしか生きられない。

ブログのように、何か残そうと思って書いたりしてるものに関しては、俺はナルシストになって壁を越える。

俺がナルシストなのかどうかは俺にも判らないが、今こうして書いている自分は、完全にナルシストだ。

ナルシストを更に拡大して壁を乗り越える。
ナルシスト力を、発動している。

別に、自己否定とか、自虐とか、自己嫌悪とか、そっちの力でも良いのだ。

上記の三個の見方は、ナルシストの裏側の見方であって、根っこは同じだと俺は思うからだ。
ナルシストを逆から見る方法は、もっとたくさんあるだろう。
そっちから表現することも、可能だろう。

自己愛をナルシストと呼ぶならば、俺はそちら側に立つ。

理想化した自分とのギャップに悩むのが、自己嫌悪だろうか。
自分を理想だと肯定するのが、究極のナルシストか。

そもそも、自分は一個しかない。
同じ自分をどっちから見るかという、くだらない判断があるだけだ。

両方ともくだらないが、俺はどちらかといえばナルシスト側に、立つ。

自己嫌悪は、理想を高く掲げるというナルシストの極致である気がするからだ。
それに悩む人がいるならば、「あなたは生きていたいのか、そうじゃないのか。」
という問いかけを贈りたくなる。

生きていたいならば、自己嫌悪は、捨てるしかないと、俺は思う。

捨てたくないなら、どうする。死にますか?

自己嫌悪のいけない点は、僻みに行き着くからだ。僻んじゃっている奴は、手のつけようがなくなる。
自分で僻み根性から抜け出してもらうしかない。
僻み根性を持っている奴からは、離れたほうがいいよ。
手出しするならば、それは自分の身の危険を考えなければならない。そうした献身的な関与が必要になる。

そうだな、僻んじゃいけないよ。
誰からも相手にされなくなるよ。