関係

おいらは、今は言葉を使って、あらゆる関係を自分に納得させている。
言葉を取り外すそうと決意した時、

滅茶苦茶にこんがらがってるように見える原因は、自分自身かもしれないって、
いや、自分自身に原因があるのだと気付く。

外せればいいと、願うんだけど、
そりゃね、外れない。

外せないならば、じゃ、どうしようかな。

根本的な、今、考えて、書いている自分と、
根本的な、自分以外の、世界。

おいらは、何かひとつの繋がりがあるはずだと、捜し求める。

響きという体感は、ヒントのような気がして、追求し続けている。
ま、それは個人的な作業で、
そうではあるけど疲労も、苦労も、あまり無い。
こうして何か書いているのも、同じだ。

何かひとつの繋がりを求めているのだから、
それに付随する個人的な作業など、苦労などとは言えない。
当たり前だから。

そう考えないと、
あまりにこんがらがって、恐らく自分が壊れちゃう。

おいらは、自分以外の世界を、

自分の求めるものに必要な道と、そうでない道の二つの方向に切り分けて生活している。

心理的に切り分けるテクニックを、おいらは強固に作ってしまっている。

最近、判ってきたことは、

自分以外の世界をばらばらに分析していくんじゃなくて、
自分のほうをばらばらに分析して、
突き詰めようとしながら流動化させて、
その常に流動化している自分を通して、
こんがらがって、凝り固まって行くように見える、自分以外の世界を見たほうが、
理解が早いと思えてきた。

つまり、自分内の流動化が進めば、
周りが全部流動化していると、体感できるような気がするんだ。
おいらはまだ、思考のなかで、そう思っているだけで、体感には至っていない。

自分が思い込もうとするものは、かなりが、嘘だ。
もっと、自分の流動化に、流れを沿わせていくほうが、いい。

これは、ほんとにギターのおかげと、
普段通勤の歩く道でみている、
数多くの、すずめ達の、おかげである。
あ、それだけでなく、木々などの、風景の、おかげでもある。

世界はぐるぐる流動化しているように見えてきたんだけど、
まだ見えているだけで、
なんというか、体感が無いんだ。