戦争は無意味

あなたと、僕が戦争を始めたとしよう。
ずっと戦争を究極まで続ければ、どちらかが倒れ、ひとりが残る。ひとりしか、残らない。
その後の世界は、一人で背負わなければならない。
食べるものを全部獲ったら無くなっちゃうなら、ちょっと残して、増やさなくちゃならない。
或いは、自分で何かしら増やす方法を考え出して、
現実的に増やさないと、獲り尽くした後に、餓死。
二人が充分に生きられる状態ならば、戦争になる確率は下がるが、どうだろう。
仲良くするか、戦争するかという選択は、
生存確率以外の条件でも生まれるんじゃないかな。

僕が残ったとして、僕はどう思うだろう。
僕は、今生活している現実的にはあまり後悔しないほうだが、そうなれば後悔するだろう。
一人で背負うならば、「二人で背負ったほうがずっと楽だったのになぁ」と、僕は考えるだろう。

戦争の途中で、相手が降参するとしよう。
「あなたの命令に従うので、殺すのはやめてください。」
こうして、僕はあなたを奴隷にする。
生存する為の苦労は、お前が二人分背負う。
僕はそのまま何の苦労もしないで、全部お前に任せていた結果は、どうなるだろう。

お前が、疲れ果てて先に死んじゃう。

あ、また僕一人で背負うしかない。

僕が、怠慢のおかげで、形勢が逆転して、お前に再度戦争を起こされる。
今度は、僕が奴隷だ。

僕は疲れ果てて、先に死んじゃう。

今度は、お前が一人で背負え。
しかし、戦争の度に、お互いに無用な疲労がうまれる。

一人で背負うのは、どの道二人で背負うより、厳しい結果になるはずだと、僕は思う。

だったら、二人で、意見を交換し、協力して、役割を分担し合って、
出来る限り二人で生き延びようとするだろう。

二人が戦争することは、無意味だ。

これが、
僕と、僕以外の何との関係を考えるときの基本となる。
それは、人間同士のこともあるし、例えば対自然とか、対人間以外の生き物とか、
対すべてに、あてはまる。

こう考えないと、
とどのつまりは、自分ひとりで全部背負うことになってしまって、
僕が死んだら、そこで僕とあなたの世界は終わる。
しかし、僕とあなた以外の世界は、そのままだ。
たとえ人類が絶滅したとしても、それ以外の世界は、あるのだ。

人間が見ている世界は、全ての動きが、ほぼそのように出来上がっている。
人間が勝手に思い込んでいる宇宙は、
僕がそう思い込んでいるだけで、
僕がいなくなっても、宇宙側の世界は、全く変わらない。

僕が見ている生命とは、
死にながら生成している状態のものを、指している。
僕の体内は、死んじゃった何かをせっせと体外に吐き出し、
僕以外から取り込む何かによって、せっせと組み立てている。
何かの正体すら、僕は掴んでいない。

そもそも、生命とは初めからある一定量以上の条件を備えないと、
生まれ得ない。複製が、不可能になってしまう。
ぼこっと、いっぱい生まれないと、その後が不可能だと、僕は思うんだ。

一個じゃ、死んじゃって、お終い。

無生物と、無生物をつないで、新しい生命が生まれた部分を科学が証明してくれるのならば、
僕はそちらを信じよう。

証明できなければ、神様を信じるしかない。

このように、世界は神様によって造られました。

しかし、それでも、
あなたと、僕の戦争など、ほぼ無意味だと僕には思える。

僕が今生きているという実感を感じ得るのは
地球が、今は生きているという証拠である。
地球内は、何故かこの域内で恐らくかなり激しく流動しているということだ。

今は、宇宙を見る科学が発達しているような気がしているけど、
全然見えていないに等しいだろう。
そっちは、圧倒的に、でかい。

僕は、こんな星は地球以外には無いだろうという立場を取る。

どうだろう。
奇蹟の星という、使い古された言葉で、結んでみたい。