関係

関係というのはとても難しいので、少しずつ考えてみるしかない。

人間同士で考えてみると、
まず、僕は人間として生まれたというのがある。

このことだけでも、膨大な時間と空間を含んでいる。
自分が孤児だとしても、自分が突然ポコッと存在出来たのではなく、
必ず何かしらの関係から生まれたとしか思えない。
そう考えると、宇宙の始まりや、それ以前というところまで関係は繋がっており、

自分の事を考えただけで、広すぎて手に負えない。

真逆に展開させて、
自分がいるから、そこから関係が繋がっているのだと考えることも出来る。
始まりは、自分だと。

僕は、これは同じ事を言っているのだという気がする。

どちらでも、構わないが、
しかし関係は膨大であり、やはりどの道広すぎて手に負えない。

つまり、ちょっとした何かを考えることは、
殆どの場合膨大な関係を含んでいて、
ちょっとしたことのように思えることを考えるのは、もの凄く難しい。

人生80年として、その間に考えられることなど今も昔もそんなに変わっていないが、
インターネット時代になり、過去の誰かが考えたことの蓄積の検索はかなり自由になった。

つまり、蓄積の中の象徴同士を結びつける道が出来たということだ。
昔ならば、図書館や学校に通ってせっせと文献を読み、
なんか論文をまとめて発表し、それが奇跡的に学会に取り上げられられ、
さらにそれが出版されという道は、限りなく遠い道であった。
今は、そういった道を通らない表現も流通しており、
インターネットの可能性は、期待できるものがある。

僕は、人工知能と呼ばれるプログラムには、何も期待していない。

そこから生み出される関係があるとして、
それはプログラムから生み出されるものである以上、
僕には何の関係もないからだ。

物理学でも数学でも哲学でも医学でも何学でも、
考え始める種は、どこから生まれるのだろう。

自分からではないか?

ノーベル賞を取るような事でも、きっかけは自分が感じた疑問ではないのか?

自分の中に種がいっぱい詰まっていて、
その種が発芽するのを見つけたのも、自分じゃないか?

自分は、種の塊じゃないか?

刺激は外部から訪れるが、
発芽するのは自分の中の種ではないか?

種は自分の中に無数にあると考えたほうが、
とても楽だし、
今自分の中で育っている幹が斃れたとしても、
いずれ自分の中から別の芽が息吹くはずだと考えるほうが、
楽だ。

僕が楽観主義なのは、そのほうが楽だからだ。