歌声の不思議その1

僕は、おそらく起きている間中、又は眠っている間の一部分は、
頭の中に自分の言葉の記述が流れ続けているので、
ちょっと頭を休ませる必要があるんじゃないかなぁという時、
音楽を聴いたり、本を読んだり、何か他の記述を見たり、絵を見たり、動画を見たり、
落語を聴いたり、
まぁ自分の脳内の言葉の記述を追い出す為に、色んな事をしている。

一番は、ギターを弾くことなんだけど、それはいつでもどこでもというわけにはいかない。

家族が音楽番組を見ているときは弾かないし、
勤務中に弾けるわけも無い。

家族が音楽以外の番組、例えばドラマや映画やその他ならば、
僕は静かに音量を下げて練習することがある。
それは、可能だ。
別に、迷惑にならない。

何故なら、言葉では無いからだ。
セリフ、つまり言葉を邪魔しないような音量で弾けば、必ずOKなのだ。結論する。実践済みだ。

僕のギターだけじゃなく、例えば掃除機の騒音なども、セリフという言葉の音量が大きければ、大丈夫。
なので、携帯見ながら、テレビを見ることが可能なのだ。
テレビと言うのは、実は見せているように見せかけて、
セリフを伝えている。

但し、音楽番組と、僕の音量下げのギターは、ぶつかる。
邪魔になる。

生音源の音楽の力には、放送などの何かを媒介して伝わる音楽は、勝てないからだ。
音楽番組を見ている誰かの横で、かえるの歌を歌詞抜きでハミングしてみたら、どうだろう。
非常に小さな声で。

やめてと言われるだろう。
歌詞が想起される以上、それはただの音ではなく、言葉だからだ。
僕の音量下げのギターは、音楽とぶつかる。

つまり、メロディーは、他のメロディーとは交わらない。
メロディーに交わるのは、ハーモニーなのだ。
勿論、ハーモニーから、メロディーが浮かび上がることはある。
そうなのだが、
ハーモニーと、別のハーモニーは、交わらない。
メロディー同士でも騒音になるのに、
重なったメロディーであるハーモニー同士がぶつかったら、
とんでもない騒音になるだろう。

僕の感覚としては、
ひとつのストーリーは、他のストーリーとは交わらない。

僕には、本当に集中させている一点のことしか、見えない。
判った気になるのは、解釈だけだ。全部、後付けだ。

それを、歴史と言うのではないだろうか。

歴史同士を混じり合わせるには、
とてつもない努力が必要であるし、

僕と周囲を混じり合わせるのも、とてつもない努力が必要だ。

こう書いてしまうと、なんだ全部後付けじゃないかということだが、
自分の感覚としては、違う。
文字を打っているのは、今の感覚で打っているので、
この一点に集中しているのは、疑い様がない。