歌声の不思議その2

小田和正さん。
僕にその声が宿っていたとしたならば、
僕は歌うことを躊躇うことはなく、
充分に歌うことを目指しただろう。

僕は男性なので、女性の歌手に、声だけの差で、
自分がそれを目指したくなることは無い。

小田さんだけじゃなく、スピッツのボーカルの人とか、達郎さんとか、
他にも色々いるけど、

歌から上手いを外して声だけで考えると、
なかなか少なくなる。

でも、それは僕だけが感じていることだろう。

で、声も、上手いも、そういったことじゃなくて、
複合的な力が伝わってくる歌がある。

歌を通して、別の世界を感じさせるものということか。

叫びでも、わめきでも、

大人ならば、
恐らく何かを真剣に考えてくれてから表現してくれないと、
ただの騒音にしか聴こえなくなってしまう。
子供のものならば、それは認めるが、
それを利用して大人が儲けようとするならば、騒音だ。

考えずに表現できる人もいるのかもしれないが、それは本物で、
存在数はかなり少ないだろう。

マチュアとプロの間には、声の差、技術の差はあるけど、
真剣さの差は、少ない。
売れた、売れないは関係なく、プロは上手い。
プロというのは、
どういった状況であろうが、一定以上の技術を感じさせてくれる人のことだ。
一定以上という部分に、生涯をささげなければ、
プロにはなれないはずだ。
コンサートのスケジュールが決まっているのに、風邪ひいたら歌えないなら、プロじゃない。
がさがさ声でも、なんとか持たせるのが、プロだ。

マチュアも、というか誰でも、表現するときは真剣だ。
一生懸命なのか。表現する時点において。

だから僕は、真剣に表現されているのか、そうではないのか、という部分には、
自分なりに基準を持っている。
真剣じゃない表現ならば、それは受け流されていく光景になってしまう。
風景は、自然の最も基本的な姿であるので、
光景とは、違う。

ありのままに、そこにある風景は、見る人によってある種の感動を産む場合があるが、
真剣さの無い表現による光景は、
薄汚い影をみせる。

何故、内から湧き上がるものに、制限をつけるのか。
何故、外側の基準に合わせようとしてしまうのか。

外側の基準に合わせて何か表現されても、
全く表現ではなく、光景に堕ちる。

内側から沸き立つ叫びならば、
皆聞いてくれるだろう。

あれ、こんな話になるはずじゃなかったけど、まぁしかたない。

===========おしまい============