ギターは、俺の愛だ。

という題名であるけど、その通りなのだ。
俺の愛が、ギターであると言い換えても、同じというとやや言い過ぎかな
ギターから貰うものが、俺の愛だ。

俺は、誰か他の人に直接触れ合いながら、ギター奏法等を指導されたことは、無い。

ギター用の譜面ではなく、普通の音楽用の譜面は、
俺は小学生当時の音楽授業と、鼓笛隊用の譜面を読み解く事で、殆ど読めた。
別に、何か特別な事ではない。興味があったからだけのことだ。
それは、♪の高低ではなくて、曲の構成、
例えば繰り返しとか、初めに戻るとか、繰り返した後はこちらへ行くとか、
そういったものだ。

そんなちょっとした工夫を理解すれば、とりあえずその譜面が示す世界の位置までは、
辿り着ける。
それ、何かいけないのか?

つまり、その位置に辿り着いてから、更に道を探すほうが良いのではないか?

位置に辿り着いたからといって、その曲が示すものには、
絶対に辿り着かない。

自身が演奏してみて、或いはその譜面を見て演奏されたものを聴いて、
初めて音楽という、一種の表現として理解する。

さて、これは何かに似ている気がする。

本に書かれているものがある。
言葉と、♪に、何か違いがあるのか。

言葉は、連ねなければ、動きにくい。
♪も、一緒だ。

あいうえおと、ドレミファは、同じものだ。

ドは、動かなければドのままだけど、
ド〜〜〜〜も、ドドドドドもあるし、ドッドドッドもある。
ああもあるし、あぁ、あ〜〜あ、あ?あ〜〜〜ぁ、
鳥の声や、そうだ、人の子の泣き声や、
そこから俺は何かを読み取ろうと努めざるを得ない。
言葉、音楽以前の音から、
自分の周囲の世界から、言葉を介さずに、
仕方なく何かを読み取るしかない。
その自分の意欲、または読み取れと強制されるもの、
それを愛と呼ぶ。

俺は人間であり、人としての感覚器官は揃っていると自覚しているので、
どれかが欠けている人のこと、
或いは俺以上の感覚器官を備えている人、
または人間以外の世界が、
俺をどう見ているのか、又感じているのかは、
想像するのがとても難しい。

俺の外側から聴こえてくるもの、それだけでも難しいのに、
内側から聴こえる言葉や音があって、

俺はギターにしか救いを求められない。

弾くとすぐさま、しかも、やや遅れて返ってくる音は、
俺の意識と同時なのか、
それとも弾いた俺の意識が同時に同じものを聴いているのか、
全く難しいのだけど、
それは言葉でもあり、音でもあり、
音楽でもあり、ただの騒音でもある。

そういった難しい場所に、秘密があるのだろう。

演奏している時、何かの流れに乗っていると感じられる時。
その時、弾いている自分の意識は失われている。

俺はそこに、愛の基本を置いてみたい。

別に、誰かにそこに置いてくれと頼むわけではない。

愛は、その瞬間とも呼べない、点とも呼べない、
個人的な連続だ。

根本的に、そこに定めてしまっているので、
自分の力では、どうにも動かせない。

その定点を動かすものも、今のところ、必要だとは感じられない。

ギターを愛する人が神様に見えるのは、
とても個人的ではあるけど、

神様だ。