表現

自分以外の世界に、何かを伝えようとする意志。
以前は、俺は自分の井戸に放り込む事だと思っていた。
井戸は、自分で掘ったものだ。

親父の生家、つまりもうすでに亡くなった祖父の家に頻繁に行くようになり、
その駐車場の端に、奇妙な、中途半端な長さのパイプが、地面から突き出ている。

邪魔だから切ってしまったほうがいいと親戚が集まった時に言ったら、
それは大間違いであった。

そこに、以前、現実的に、井戸があった。
今は使っていないので埋めたのだが、
息を抜かなくてはならないのだそうだ。しきたりみたいなものだ。

つまり、いったん掘った井戸を完全に塞いでしまうのは、いけないことなのだ。

なるほどと、俺は思った。

便利に、勝手に掘って使っていたものを、
水道を引いたからと言ってまた勝手に都合で塞ぐことなど、
やってはいけないことなのだ。

ああ、更になるほど。
俺は自分の為に、勝手に井戸を掘った。内面に。

それも、もう塞ぐことは、いけない事なのだろう。

俺は少しだけど、表現の意味を考えた。

自分の中に投げ捨てているだけでは、
少し足らない。

こうして、何でもいいから書いて、
批判を受けなければならない。

恐れずに、誰かに何かを話さなければならない。

じっと蹲っている人を見たならば、
「どうしたんですか?」と、
問いかけなければならない。

ならないことばかりで、やや辛いけど、
辛いと思うことは今だけのような気がする。

やらなければならないことが多いことを、実は望んでいるのだろう。
何にもすることがないほうが幸せなのだとは、俺には思えない。

俺は、孤独を望んでいるふりをしているだけだ。
でも、わいわい騒ぐ気にもなれない。

大切な人と、静かに語り合うのが、良い。

ギターに還る。いつも孤独に寄り添ってくれる。