関西弁

僕は関東圏ネイティブなので、
僕が誰かの語りを聴いて関西弁だと感じ取る判断基準はかなり曖昧で、
関西圏の複雑且つ明確であろうはずのローカルエリア感は、勿論実感できない。

そもそも、ネイティブであるはずの関東圏の言葉のローカルエリアも、実感できない。

ただ、誠のサイキック青年団をこの一ヶ月くらい聴きっぱなしなので、
誠さんと竹内さんが話すリズムに乗ってしまっている。
竹内さんは、和歌山ネイティブらしい。
しかし、僕には誠さんとの違いは、感じ取れない。

話し方としてとてもうらやましいのは、
厳しい判断を語る場合、
判断を下しているのに、グサッと突き刺さない感じがする語りがあることだ。

この感じ方は、誠さんや竹内さんも納得されている事で、
語りだけに訪れる感覚であり、
関西弁といえども、文字起こしてそのまま活字化すると、
かなり厳しいものと感じられるのだそうである。

いいなぁと思う言い回しのひとつに、
「もう、ええんちゃう。」が、ある。

これが非常に豊かなバリエーションを持ち、
「もう、ええんちゃいますか。」「もう、ええんちゃいまっか。」
「もう、ええんちゃいますの。」「もう、ええんちゃいますのん。」
「もう、ええんちゃうか。」「もう、ええねん。」
「もう、ええっちゅうねん。」

厳しく言うと、「もう、ええ。」なのだろう。

更に、これらに様々なイントネーションが加えられて、
非常に豊かな世界が表現される。
これは、サイキックを聴いていて、実感したことだ。

僕は思うのだけど、
その一つの語りのバリエーションを使い分けられるという事は、
その語り手が持つバリエーションの豊かさを表しているのだろう。

「もう、ええ。」
一生懸命に無心に頑張っていた友が夢破れ、
残念会で酔いつぶれたのにも拘らず、まだ、
「俺は、まちがっとらん。」と、うわ言をつぶやき続けている。

肩に静かに手を置いて、
「もう、ええ。」

一言しか、言えない。
何故なら、
そいつの痛みが自分に充分に伝播しているので、
それ以上言えば、一緒にぐだぐだになるしかないからだ。

「俺は、まちがっとらん。」
「お前、ええ加減に、せいっ。」

殴り合いになったとしても、
それは喧嘩ではなく、コミュニケーションの一部だろう。

周りの人に迷惑をかけてしまうこともあるかも知れないけど、
後できちんと謝れば、済む。


僕のもうええんちゃうは、とてもすっきりしている。

宗教。もう、ええんちゃいますか?
森さん。もうええんちゃいますの?
システム。もう、ええねん。
戦争。もう、ええちゅうねん。

囲碁用コンピュータが棋士を負かしても、
あらゆる何かの証明にはならない。

僕は宣言する。
人工知能 artificial intelligence と言う言葉自体に、
不適切な矛盾がある限り、
僕のちっぽけな脳でさえ、人工では構築し得ない。
人工知能と呼ばれているものは、
恐らく脳機能の一部を再現するものでしか有り得ない。

もっと、適切な言葉を提示してくれれば、
僕は納得する。その可能性は、否定しない。

60兆個の中にある細胞同士の繋がり、及び一つの細胞内の活動、
その全てを記述し、

僕個人と周囲の世界を記述することなど、

不可能に、決まっている。希望とか、予想とかとは無関係に、
出来るはずがない。

車が人工知能で勝手に走る事など、
僕個人には無関係だ。

出来ると考えている人達が示すものは、
嘘である事を知っている人達による、
犯罪だ。