瞬間

瞬間という僕が切り取る時間。完全に停止した世界。
そんなものは、何処にも存在しない。
但し、完全な停止が存在しえる隙間が在る。
自分が想像した、又は自分以外の何ものかが想像した空間だ。

想像内の世界では、自分の想像力内において、
あらゆる世界を存在を切り取ることが出来る。

現実世界の進行は、そうでは有り得ない。
切り取れるならば、
僕が切り取ったときに、世界は停止しているはずだ。

僕が蹴られたサッカーボールを写真に撮って、
僕が瞬間を切り取ったと思っているとしても、
その写真は、停止ではない。
切り取られた瞬間と思えるサッカーボールに、魔術のような運動、例えば右カーブのような意図が秘められ、
更にそのボールに風のような空気抵抗が加えられ、
ゴールに入る。

写真に写っているボールから、それを読みとれない。

では、写真の連続である映像は、
基本が写真であるのであれば、現実を何も証明しない。
ハイビジョンカメラで、ビデオを廻していたとしても、
無数の瞬間の切り取りでしか、無い。

僕が現実に目にしている世界と、何の関係も無い。

この辺りに、ある魔術が存在していて、
その辺りを無限にいじくる事で、
表現とは言えないような表現が、無数に現われる。

写真をどんなに時間的に細かく撮ったとしても、
現実では連続している。離れない。
写真と、写真は、くっつかなない。
現実は、くっついている。間違いない。

連続を実感しなければ、
機械的、自動的な生き方を生きることになるけど、
それはそれで自然な生き方であって、誰からも批判されることは無い。だけど。

僕が考えるのは、連続のことだ。

想像力内の停止という出来事を、
どうやって連続にしようかという、とても困難な作業だ。

停止を無限に広げる方向は、非常に難しい。

連続に委ねて、感想を語ることも、難しい。

その辺りが、
自分を批判的に自分として考えても、とても面白い。