考える事。

もし、僕が高校の校長になって、生徒の皆さんに何か話さなければならないという状況を想定して、
その草稿を書いてみます。

私がもし神様であるならば、
皆さんにお伝えしたいことが一つあります。
それは、「理解し、理解されなさい。」という事です。
神様であるならばという前提をつけたのは、
私も恐らく皆さんと同じように、自分の中に様々な矛盾や、疑問を抱えているからです。
皆さんと同様の立場である私が、
自分以外の誰かに対して「こうしなさい。」と何か命令を下すような態度は取れません。
しかし、自分が神様であるという立場を借りてでも、皆さんにそれを伝えたいという願いを、私は持っています。

自分以外の誰か、それは人間だけでなく、大きく言えば、
例えば宇宙という存在、
ドメスティックに言えば、あなたのすぐ隣に居る存在に対して、
「理解したい、理解されたい。」という願望を持ち続けて欲しいのです。

私は恐らく皆さんと同じように、
「何故自分の事を誰かにわかってもらえないのだろう。」
という大きな悩みのようなものを、ずっと、今でも、抱えています。
しかし、では自分は自分以外の何かをわかっているのでしょうか。
自分自身についても、何かわかっているのでしょうか。

太陽や月、道端の草花、蹴とばした石ころ。大好きな人。
私には何一つ、わかっていることなどありません。

ただその場に佇んだままで、自分を誰かに理解してもらいたいと願うことなど、
私にはただのわがままにしか思えません。

何かを理解しようという願いを持って行動し、
自分を理解されたいという願いを持って、何かに働きかける事。

それ以外に、私自身が望むことはないし、
皆さんが同じようにそれを望んでくれることしか、今私が望むものはありません。

その働きかけこそ、「考える。」という、存在すべての行動の正体ではないかと考えています。

そして、自分と自分以外のものも全てが考えているとすれば、
理解という共通の目的に辿り着くはずだと、私は期待しています。
もし、理解に辿り着かなくても、
それを望んで行動する皆さんの姿は、
神様に肯定されるはずだろうと、同様に期待するのです。

共に考えたいのです。