善いことはしてはいけない?

前回に引き続いて俱舎論の本の話であるが、
俱舎論では、大体おいらごときが考えうることは、全て明確に分類されている。
須弥山とかも出てくるがそれは象徴としての位置であって、
それが本当に存在しているとかそういった話ではなく、
前後左右上下の空間構造と、中にあるものの位置関係、出来事同志の位置関係、現在過去未来という位置関係、
それぞれの関係が及ぼす効果と結果を明確に規定しようという意思が、俱舎論の意味するところだと受け取った。

素敵なのは、刹那という考え方だ。
全てが一瞬に現れ、瞬時に消え去り、瞬時にまた現れる。

おいらは決定してしまっている過去から何かをフィードバックしながら、
瞬間のおいらが何かを為し、
それは決定的に未来を予約し、
時間的、空間的に完全にランダムに予約は果たされる。いつかどこかで。
因果応報。

善悪その他、何か人の判断というのは当然、完全に分類されている。
なるほどなと思ったのは、
善いことするのも、悪いことするのも、どちらも業を生むから駄目だという点だ。

悪いことをしてはいけないのは、それが必ずいつかどこかで迷惑な結果を生むから。
善いことをすると、それは必ずいつかどこかでありがたい結果を生む。
「え?」 ありがたければ、楽しいことなら、いいんじゃない?
ところがどっこい、
善行も、悪行も、両方が業を生むエネルギーとなる。

しかし、業を断ち切るのが仏教が目指す悟りのおおまかな目的なのだ。

善いことはしてもいいが、「自分が善いことをしている」と思ってはいけない。
ふと、当たり前のようにするのはいいのだけど。
そりゃ、難しいぜ。当たり前のように、自然に善いことをするのはね。

これ以上書くと、おいらは本を書かなければならなくなるのでもうやめるけど、実感したんだよね。
なんでおいらは偽善的な奴らを嫌悪し、ある意味の犯罪者を好きになるのか。
ええかっこしいも大嫌いだし、
善人面しながら人を騙そうとする奴らも大嫌い。
そんなことをする奴らよりは、
頭にきて誰かをぶん殴っちゃった奴のほうが好き。

おっと、
これは今回のアメリカ大統領選挙の結果の理由を説明しちまうな。
おいら、世界情勢分析のエキスパートだな。