またしても大聖堂。。。なのに志ん生。

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これは、いい本です。
色んな話が載ってますが、大体、泣ける。いい話だから。
特に最後の志ん生師匠の長女のね、話。一本前の圓生さん達の話と重なって、泣けた。

みんな、何か好きなことあるでしょ?ああ、これがあれば他に何もいらないって奴。
別に何でもいいけどさ、例えばごはんでも、虫でも、絵でも、車でも、宗教でも何でもいい。
好きでたまらなくて、ああもう、どうにでもしてって感じ。
そういったものが無い人は、おいらは何かそういったものを見つけることを薦めるよ。

それはさ、おいら、つまりこちら側から見た感じだね。
なかなか、向こう、つまり好きなもの側からの問いかけを追求する人は、少ない。
それはわかんないからね。対象が人であれ物であれ芸術であれ、
向こう側は向こう側の理屈で動いてんだから。
おいらの理屈なんて、屁みたいなもんだしね。

落語という神様がいるね。落語をやってる人が神様なのではなくて、落語自体が神様。
例えば、志ん生師匠みたいな人は、
落語という神様に憑りつかれた、聖人。
なので、本人にも何かわからないだろうし、おいらは師匠を崇めるしかないなぁ。

でもさ、好きなものに対してなら自分を投げ出すことが出来るし、
向こう側からやってくるものを追求するでしょ。
好きという自分からの行動を突き詰めざるを得ないし、
自分を投げ出した結果何が起きるのかを追求したい。
それを、はまってしまうと言うんじゃないかな^^。

大聖堂を練習というか追求しながら、
あ、これって「黄金餅」だなぁって、実感しちゃったんだ。

マクラがあって(第一楽章)、本題に入って(第二楽章)、だ〜〜〜っ(第三楽章)とね^^。

下谷の山崎町を出ましてあれから上野の山下に出て三枚橋から上野広小路に出まして、
 御成街道から五軒町へ出てそのころ堀様と鳥居様というお屋敷の前をまっ直ぐに、
 筋違(すじかい)御門から大通り出まして神田須田町へ出て新石町から鍋町、
 鍛冶町へ出まして今川橋から本白銀(ほんしろがね)町へ出まして石町へ出て本町室町から日本橋を渡りまして、
 通(とおり)四丁目へ出まして中橋南伝馬町、
 あれから京橋を渡りましてまっつぐに、
 尾張町新橋を右に切れまして土橋から久保町へ出まして新(あたらし)橋の通りをまっすぐに、
 愛宕下へ出まして天徳寺を抜けまして西ノ久保から神谷町、
 飯倉(いいくら)六丁目へ出て坂を上がって飯倉片町、
 そのころおかめ団子という団子屋の前をまっすぐに麻布の永坂を降りまして、
 十番へ出て大黒坂から一本松、
 麻布絶口釜無村(あざぶぜっこうかまなしむら)の木蓮寺へ来た。」

 みんな疲れたが、私(志ん生)もくたびれた。

だ〜〜っというリズムね。
自分で喋ってみるか、例えばギターなら弾いてみるか、やってみるしかない。
息をどこで吸うのか。
喋ってみなければわかんないでしょう。
同じだな。呼吸。たぶん世の中全部の呼吸。

好きなものは、ほんとに楽しい。