全ては対話。(どれだけ続くかわからない話のうちの、その1。)

全存在の基本となる粒子は、ボソン粒子とフェルミ粒子に分かれる。
おいらが今言ってるからといって、オカルト的な話ではなく科学的な事実である。
量子物理学なのだ。

ボソン粒子とは、同じ場所に二個以上の存在が許されている。

例えば、光。
数学的な1点に、大量の光を集めてレーザービームが出来るのは、
そのボソン粒子の存在が許されているその性質による。

フェルミ粒子とは、同じ場所に二個以上の存在が許されない。

例えば電子。
数学的な1点にある電子が存在すれば、その場所に他の電子は居られない。
パウリさんがそう言って多くの科学者が認めるに至った、
それは排他原理と呼ばれる、科学的な事実である。
電子ビームは、ビームにはならない。機関銃のように、その1点に撃ち込むことは出来るけど。
そこにあった電子は、弾き飛ばされる。

ボソンでもフェルミでも、
全く同じ性質を持つ粒子というのは、めちゃめちゃにたくさん存在している。
それらで全てが出来ているので、当たり前の話である。

が、しか〜〜し。

同じ性質を持っているからといって、
あなたはわたしでは、ない。

全ての粒子は、個性を持ち、独立した存在である。
その個性的に存在しているという、individualityを支えるものを、意志と定義する。

わたし独りならば、私は全部で、他に何もいらない。
これは、全部ないのと、まるで一緒である。
誰もわたしを見るものがないから。

でも、わたしはいるに違いないという実感がある。
在り様は様々で、その様がよくわからないとしても、わたしがなければ説明がつかない。

電子のような粒子的存在の一粒一粒が、意志を持ち、独立した個性を持っている。

つまり、どんなに同じように見えているものや現象であっても、
全部ばらばらに独立しようという意思によって、
世界は成り立っている。

以上は、山田廣成先生の講義から、おいらが脳汗を垂らしながら受け取ったものである。


=================
後記
ボソンvsフェルミオン、ボース粒子vsフェルミ粒子ですね、用語の扱い間違い(激(;´∀`))