物質と記憶

物質と記憶 (ちくま学芸文庫)
なんという本に出会ってしまったのだろうか。今頃になって。
「純粋知覚から記憶へと移行することで、われわれは決定的な仕方で物質を離れ、精神へと向かう。」
どうやら僕が思っていた、「思考的俺と、身体的俺は別」ような気がするというのは、おおまかな方向で間違ってはいないようだ。記憶には二方向あったのだ。
反復的行動のための、過去の行動の体系としての記憶とは全く別に、現実に決定的な色彩を与える為のイマージュ。
過去のイマージュから現在の知覚が形成されるのではなく、
純粋知覚が僕の全てのイマージュをサーチし、記憶が現在に産み出され物質に関わりあうのだ。
偶然に思い出すなんていうのは、嘘だった。思い出すために、思い出すのだ。

僕は理解には程遠いが、この本は難解な用語遊びのようなものは全くみられない。
ベルクソン自身が、哲学のそういった傾向を嫌っていたからである。
説明は細部に渡るが、それは仕方ないことである。難しい話だから。
しかし、丁寧に説明され、章の最後には、文章として理解されるはずである。

「現在は僅かに遅れた過去としてしか知覚できない」という考えも、僕には非常にピッタリきた。

無限に広がる現在という平面pに接する点sを頂点として、abを直径とする円が形作る逆円錐の記憶モデル。
円錐の高さも、無限に分割可能である。
a"b"という円、a'b'という円、abという円というように、sから過去へと向かうそれぞれの円がその地点での記憶の平面を表している。
その円錐総体が、sという一点に向かう。

このモデルも、素敵だ。

なんといっても、この巨人は、わからないことを誰かに尋ねるのではなく、
全部自分で確かめちゃった人である。生涯を賭けて。凄い気力だ。それだけでも、読むに値する。

以前読んだ井筒俊彦先生の本にもよく似ている。井筒先生は、言語の世界からのアプローチであったが、
見えてくる世界は結局の所一つに重なり合うものなのだろう。

うーん、せめて20代に出会っていれば、全く違った世界が僕にも見えたのかも知れないが、
嘆いてもしかたない、こればっかりは。

一応の読了に1ヶ月以上かかってしまった。これから「思想と動くもの」を読むのである。
下地があるので、もうちょっと素直に読めるのを期待する。